なぜニュースを見るのか

最近、なぜニュースを見るのだろう、ということが気になっている。

知ったところで、自分にはどうにかなる問題じゃないことが多いからだ。

 

政府の土地にまつわる不正問題。

ウクライナの情勢。

トンガの火山が噴火したこと。

全国の新規コロナウイルスの陽性者数。

などなど。

 

自分に関係しているニュースなら、見る価値があるのだろうか。

そうかもしれない。

 

たとえば、コロナウイルスについて、少なくとも僕は、

昨日の新規陽性者数は知らなくても、

 

コロナウイルスが新種のウイルスで、

それが全世界的に蔓延していて、

ワクチン接種が日本ではかなり進んでいるが、

新種のオミクロン株というウイルスが蔓延していて、

あらたに陽性者数が増えている

という程度の情報が、なんとなく耳に入っていている。

 

そして、自分の住む場所でも増えていて、

それに対応するような、過ごし方をしたり、していなかったりする。

でも、確かに間違いなく、ニュースが、

自分の世界、社会に対する理解を形成しており、

それによって多少なりとも自分の行動が影響を受けている。

これが自分という個人単位で起きている。

そして自分の行動が、直接的に、新規感染者数の推移に影響を与えるかもしれない。

そういう実感がある。

 

そういうことが、ニュースというものの影響として起きている。

 

一方で、ウクライナ情勢。

これは、語弊があるかもしれないが、

どちらかというと、どうでもいい。

 

ヨーロッパの出来事であるから、日本には、自分には関係ない、

今すぐウクライナ情勢を知ったからといって、

自分の日常の行動が変わるわけではない。

 

ウクライナやヨーロッパは、

アメリカは、ロシアは、

大変だなあと思うまでである。

 

知っていても、知っていなくても、

自分はロシアやウクライナに関係のある仕事をしているわけでも、

エネルギー関係者でもなく、

外交官でもない。

だからか、どうでもいいし、知っても知らなくてもいい。

戦争になるとか、そういうことではない限り。

 

では、戦争になったらウクライナのニュースは自分ごとになるのか?

おそらく、そこまではならない。

知ったところでどうにもならないからだ。

ウイグルで今起きていること。

それを知ったところで自分の行動はそこまで大きく変わらなかった。

変えたところで、大きく影響を与えることはできないから。

でも知ったことで、自分の中国に対する見方は変わったかもしれないし、

また一部新疆の強制労働による素材を使っているかもしれない日本の企業のお店から足が遠のいたかもしれない、

という感覚はある。

小さくはあるが、少し影響を受けている。

 

個人レベルでこういうことが無数に起きているかもしれないと思うと、

確かに事実を伝えること、ジャーナリズムには、世論形成の力があるかもしれない。

事実を伝えること、それをもとに各人が判断し行動すること。

そういった助けにはなっているのかもしれない。